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平成最後の日

平成31年4月30日。ついに「平成」という元号最後の日を迎えることになりました。

昭和64年1月7日、当時私は中学二年生でした。昭和天皇崩御という重苦しい中、鶴見線昭和駅に行った記憶があります。券売機でキップを買いましたがその後紛失。まあキップコレクターではないのでさほど気にせず。

しかし学年が一つ上がり、高校受験が控えている中、鉄道情報誌の特集を読んで行きたくなった場所。それが板谷峠でした。忘れもしない平成元年10月22日。朝一番の東北新幹線で福島駅に降り立ち、奥羽本線427列車に乗り越えて赤岩駅を目指しました。その日は多くのジョイフルトレインがやってくるだけあって、多くの鉄道カメラマンが集結。そこで知り合ったメンツに触発されて板谷峠の魅力に惹かれ、高校進学してから何度となく板谷峠に通い出す始末。その後友人たちに北海道の鉄道写真、とりわけ深名線の情景に魅せられて大学進学の地を北海道に選んでしまったほど。つまり私の撮り鉄人生は平成元年に初訪問した板谷峠全ての原点ということになります。名物だった四駅連続スイッチバックが廃止され、EF71やED78なども撤退し、そして山形新幹線が開業してからも、原点である板谷峠通いは今日まで続くことになります。

私にとって「平成」という時代での鉄道写真は広く浅く、ではなく狭く深いものでした。恐らく「令和」へ時代が変わってもこのスタンスは変わらないでしょう。鉄道写真人生30年を過ぎて、写真業界もフィルムからデジタルへ。そしてミラーレスへと変革していっています。時代に取り残されないように、新しい時代もさらに頑張っていきたいです。

画像は平成元年10月22日、初めて板谷峠へ行く際にEF71を撮ったファーストカット。
Nikon EM / 奥羽本線 庭坂駅にて(1989.10.22)
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[ 2019/04/30 07:00 ] BLOG | TB(-) | CM(1)

さよなら 夕張線

2019.3.31。炭都・夕張の盛衰を見守り続けてきたJR石勝線夕張支線)が127年の歴史に幕を下ろしました。かつては夕張本山をはじめ、大夕張や真谷地などの炭鉱から数多くの石炭列車がこの夕張線を経由して室蘭港などへ運び込まれ、本州へ輸送していました。しかしエネルギー革命の名に取られ石炭産業は衰退。ヤマは次々と閉山し、国鉄からJR北海道へ引き継がれた石勝線も、名称上幹線だけど実質は地方交通の最たる盲腸線。国道も線路と併走しているから廃止は時間の問題だろうとずっと思っていました。当時の夕張市長(現北海道知事)による、いわゆる「攻めの廃線」にも納得せざるを得ない状況でした。廃線決定後何度が沿線に出向きましたが、通えば通うほどその沿線の魅力を再発見してしまうという皮肉を痛感しました。

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実は廃止当日まで京都へ修学旅行に同行。お昼には撮影が一通り終わるので、依頼主と先生方に許しを得て、最後の見学地清水寺にて一行と別れ、急いで京都駅へ行って関西空港行き特急「はるか」に飛び乗り、関西空港から新千歳空港までJALで高飛び!そしてレンタカーで夕張へと急ぎました。遅れもなくスムーズに移動できたおかげで最終一本前の列車を新夕張駅発車直前に間に合うことができました。

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鉄道が町から消える最後の日の夕暮れを鹿ノ谷駅で見送りました。この駅もかつては夕張鉄道の発着駅であり、石炭列車が行き来した広い構内がありましたが、雪や木々で覆われて往時を偲ぶことは難しいでしょう。

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そして運命の最終列車。友人に脚立を借り、ベストポジションで運転手への花束贈呈や新夕張駅長の出発合図を撮ることができました。お昼のお別れ式が撮れなかった分これを撮るがために関西から駆けつけたのですから。

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最終列車が去った後即線路や駅を閉鎖する作業が始められました。何度となく通った清水沢駅の看板が外されるととてつもない虚無感に襲われてしまいました。

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もう二度と列車が走ってこない線路。レールに耳を当てれば、気動車がゆっくり走る音やデゴイチ牽引石炭列車が豪快に走る音が聞こえてくるだろうか。

※いずれもNikon D850 / AF-S NIKKOR 24-70mm f/2.8E ED VR
[ 2019/04/01 21:00 ] BLOG | TB(-) | CM(0)